ヴァンス・ロザリオ礼拝堂とは?
パリから電車で10時間以上離れた地、南フランスのヴァンスにマティスが手掛けたヴァンス・ロザリオ礼拝堂という聖堂があることをご存知だろうか。
マティスが手掛けた唯一の建築物だ。
建築、陶器、ステンドグラス、彫刻、家具…全ての外装・内装をマティスがデザインした。
ブルー、イエロー、グリーン、そしてホワイトを基調としたデザインは、一目でマティス晩年の切り絵作品を彷彿させ美しい。
マティスは「生涯の仕事の集大成」と生前に語った。
闘病の末、急死に一生を得たマティス
1941年、マティスは小腸癌(十二指腸癌)を患う。手術は成功したが重度の合併症により、3ヶ月寝たきりとなり、命の危機にさらされる。
急死に一生を得たが油絵で絵を描くだけの体力は回復せず、以降は切り絵を中心に作品を生み出したマティス。意外にも長生きで、1954年に84歳の生涯を終えた。
マティスがヴァンス・ロザリオ礼拝堂を手掛けたのは、1948〜1951年の3年間で、79〜82歳の晩年の時期。
正に命を削るマティスに負荷の大きいプロジェクトであったに違いない。マティスをそこまで突き動かしたのは、一人の女性との出会いであった。
看護師 モニーク・ブルジョワとの出会い
マティスが72歳の時に小腸癌を患った時、その療養先で夜間看護を担当した看護学生モニーク・ブルジョワ。素直でユーモアのあるモニークとマティスは直ぐに仲の良くなった。
2年後、モニークは父親の意向もあり、ドミニコ会の修道院へ入ることを決意、シスター・ジャック・マリーと名付けられる。マティスはモニーク・ブルジョワの決断に驚くものの、しばらくの時を経て、再び文通で連絡を取り合う。
時を得て、老朽化した礼拝堂を再建する計画が立てられ、シスター・ジャック=マリーからマチスへ礼拝堂のステンドグラスのデザインを依頼されることになる。当初はステンドグラスのデザインだけを依頼したが、最終的には建物全体のデザインを希望される。シスター・ジャック=マリーの説得により、マティスは、全てを監修することを承諾。
この夢のようなプロジェクトは、マティスからシスター・ジャック=マリーへの最大限のお礼と信頼の証の上で出来上がったものなのである。
簡易年表
- 1941年72歳で小腸癌を患ったマチスは、3か月の入院生活を経た後、奇跡的に回復。
入院生活中、夜間看護師として看病したのがモニーク・ブルジョワであった。2年前から住んでいるニース シミエのアパートに戻る。 - 1942年モニーク・ブルジョワをモデルに作品を描く。
- 1943年マティスはヴァンスに引越す。
- 1944年モニーク・ブルジョワが修道院に入り、シスター・ジャック=マリーの名を与えられる。
- 1945年シスター・ジャックマリーとマチスは文通を通じて、再び交流するようになる。
- 1946年マティスとシスター・ジャック=マリーはヴァンスで再会する。
- 1947年老朽化した礼拝堂を再建する計画が立てられ、シスター・ジャック=マリーからマチスへ礼拝堂のステンドグラスのデザインを依頼。マチスは快く承諾する。
- 1948年シスター・ジャック=マリーの説得もあり、構想段階も含め、マチスは4年間に渡り礼拝堂のデザインを総合的に手掛ける決意をする。
- 1951年ロザリオ礼拝堂が完成。
- 1954年マティス没。シミエに埋葬される。
- 2005年シスター・ジャック=マリー没。ヴァンスに埋葬される。
最後に
マティスの晩年を語る上で、南フランスのニース、ヴァンスの場所は欠かせないだろう。
本記事で紹介した、生涯で唯一の建築物ヴァンス・ロザリオ礼拝堂以外にも、マティス美術館や墓地もこの周辺地域にある。
マティス好きの著者は、生きているうちに一度は訪れたい場所の一つだ。
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